3月2日 卒業式  高校生活最後の日


  いつもより早く目が覚めて
  布団の中でだらだらとまどろむことなんて、きっとこれから先何度も繰り返すことなのに、それすらも名残惜しくて。
  ハンガーにかかった制服を前にして、つぶやく。

 「今日もヨロシク。」

  今日が最後だ



 「行ってきます!」

  感傷的な気持ちを振り払うように大きな声を出し、元気良く足を踏み出した。

 「おはよう、おねえちゃん。」
 「おはよう遊くん!遊くん今日卒業式だよね?おめでとう!」
 「ありがと……っておねえちゃんもでしょ。卒業おめでとう」
 「へへ、ありがと!」
 「……で、結局昨日は誰とデートだったのさ?」
 「ナイショだってば。」
 「……俺の人生かかってるんだけど。」
 「?行ってきます!」

  遊くんももう中学生になるんだな。




  いつもよりゆっくり歩く。
  通学路をやたらキョロキョロと見回してたら、初めて気付いた事もあってなんだかおかしい。
  たった三年間。
  でも、はばたき市に戻って来てからのすべての時間。
  人生が終わるって訳じゃない。
  でも、確実に区切りになる日。

  何の理由もなく、ただ高校生だという理由だけで、毎日あたりまえに集い、あたりまえに時間を共有する。
  そのあたりまえが今日であたりまえじゃなくなるんだ。



 「おはよう!」

  最後の朝
  最後の朝の挨拶
  みんなで講堂に向かいながら、今だってまだ実感のわかないその時へと近づく。
  少しずつ増す緊張感と共に、さらさらとこぼれ落ちていく時の砂。
  ぎゅうと握り締めても指の隙間からこぼれていくのを止めることなど出来なくて
  ただこぼれ落ちたそれを眺めてなんとも言えないやるせなさを噛みしめる。

  このもどかしさすら、いつかはきっと愛しく思えるに違いないけど。





  式が始まる。
  大人の長い話をぼんやりと聞きながら、ただ1つの空席を見つめていた。
  たくさんの女子の視線を一身にあびているだろうその場所が、わたしの3年間の結果だ。

  ……からっぽ?本当に?

  よくわからないや。








 「卒業おめでとう。」

  泣くか泣かないか賭けの対象になってる事も露知らず、若王子先生は慈しむような笑顔でわたし達に担任としての最後の言葉をくれる。
  三年間わたし達を見守ってくれていた、優しくて頼れる先生。

 「この先訪れるだろう困難な道も、自信を持って進んでください。君達はこの三年間で、それだけの力を身に付けたはずです。
  迷った時に支えてくれる友人や、動けなくなった時に暖めてくれる思い出も得た。」

  若王子先生の優しい笑顔も、今日ばかりは残酷だ。
  一番大切な人と大切な思い出を失ったわたしには、無力さを突きつけられただけに思えるから。

 「大切な記憶は自分を守る盾になります。鎧じゃなくて盾だから、守ろうとかざさなければ守れないんだよ。
  かけがえのない思い出があれば、自分もまたかけがえのない存在だと気付ける。
  なんの変哲もないただの日常がどれだけ愛しいものだったか、もう知っている君達なら大丈夫。」

  先生の瞳が、わたしを捉える。

 「……大丈夫です。」
  どきり、と心臓が高鳴った。



 「僕は未熟な教師です。きっと僕が君達に与えられたことより、君達から与えてもらったものの方がずっと大きい。
  先生の教師としての日々はこれからも続いていくけど、君達と過ごしたかけがえのない毎日が僕を勇気付けてくれる。
  ここにいていいんだと背中を押してくれる。本当にありがとう。」

  若王子先生の言葉は最後まで穏やかに流れて染みこんでいく。
  気付けばボロボロに泣いているのは生徒の方だった。

 「ちなみに3年生のクラス担任全員で賭けをしてます。クラスの生徒全員を泣かせたので、1ヵ月昼食ゲットだぜー。」

  クラス全員の涙を前に、若王子先生は最後の極上スマイルを浮かべ
  そしてブーイングの嵐。





  ほんとに最後?
  ……本当に最後だ。
  誰もいない講堂にただ1つ、誰も座ることのなかった椅子にそっと触れる。

 「卒業おめでとう……瑛くん。」

  卒業だよ。
  みんな卒業したんだよ。
  わたしも、他の女の子達も、義務だけの勉強も、メンドクサイ運動も、全部終わったよ。
  もう瑛くんを苦しめる物はなくなった?

  だったらいいな。
  瑛くんが笑ってればいいな。


  わたしは……笑えそうにないや。






優しい言葉は残酷なんだ

  足は自然とそこに向かう。
  岬に建つ、時間の止まった喫茶店。

 「珊瑚礁……」

  瑛くんと初めて出会った場所。

 「・・・やっぱりいない、よね。」

  二階の窓を見上げても、しっかり雨戸まで閉まっていて人のいる気配はない。

 「ちょっとは期待してたのになぁ。」

  呟いて、一人で笑う。でももし帰ってたら、会いに来ないとすねちゃうもんね。
  海から差すオレンジの光。
  じわじわと空に滲んで広がる夕焼け。
  今日が、わたしの高校生活がもうすぐ終わる。



  夕陽を追うように、岬の先端に近付いて、吸い寄せられるように、灯台の扉に手を触れた。
  ・・・・・・開いてる?
  少し躊躇いながらも扉を引いた。



 『ねぇ、君は人魚なの?』


  不意に蘇った声。


 「・・・ここは」

  何度も思い返してた幼い頃の思い出が、より鮮明に浮かび上がる空間。
  部屋の奥の、もうひとつの扉を開く。
  キィ、と小さく軋む音と共に視界いっぱいの夕焼けに染まる海が目にとびこんでくる。
  やっぱり、そうだったんだ・・・・・・



 『でも、僕ならきっと見付けるよ。』



 『だから、顔を上げて?』



  可哀相な人魚と若者のお話に、海で出会った男の子が付け加えた未来への希望。
  夕陽に染まる、色の薄い髪に目を奪われたまま、その子の唇がわたしの唇に触れて。



 『口づけだよ。この海で、また逢えるように。』



 「懐かしいな・・・・・・。綺麗な夕日。この海も潮の匂いも、あの頃と同じ。」

  あの日、今日とおんなじ夕焼けの世界で、瑛くんとわたしは出会ったんだ。
  ・・・・・・ちゃんと卒業しなきゃ。瑛くんは、もういないんだから。
  少しずつ濃度を増す眩いオレンジに、幼い日の約束が胸を締め付ける。





 『人魚と若者は出会わない方が良かったんだ。』

 「そしたら悲しい物語なんて、なくてすんだのにね・・・・・・」

  気付くのはいつだって、どうしようもなくなった後。







 キィ  


  扉の軋む音に振り返る。
  夕日の色に染まる色の薄い髪。

  
   「やっと見つけた。」

 「・・・瑛くん?」

  そこにいたのはもうここにはいないはずの佐伯 瑛。
  オレンジの光に包まれた姿はなんだか輪郭が曖昧で、まるで夢の中の人みたいに綺麗 。
  ああ、やっぱり夢なのかな。でも夢でもいいや。瑛くんがいるなら夢の方がいい。

 「さっき、飛行機で着いたんだ。学校行ったら、もう卒業式終わっててさ」

  だけど、鼓膜を震わせるその声。その幸せな感覚に微笑んだ。

 「ほんとに瑛くんだ。」

 「・・・遅いんだよ、おまえは。」

 「うん。」

  嬉しくて笑って、笑えたことにまた嬉しくなる。
  瑛くんが怒ったような顔で手を伸ばしてくる。チョップがくると思ったら、指先がわたしのほっぺをなでた。
  その確かな感触が嬉しくて、また涙がこぼれる。

 「瑛くん」

  わたしもそっと指を伸ばす。
  ずっと触れたかった。
  ずっと触れて欲しかった
  ずっと

 「会いたかった・・・」



  伸ばした指先が頬に触れかけた、瞬間


 「待て!」

  鋭い命令に思わずぴたりと動きを止めた。

 「・・・?」

  わたしは不満をこめて口を尖らせ、急にわたしから離れる瑛くんを見つめる。

 「危ない・・・またたぶらかされるとこだった。」

 「?そこ届かない。」

  わたしが再び手を伸ばしても、大きな掌をかざされる。

 「ダメ。お預けっ!」

  ぴしゃりと言い放たれ、わたしは頬を膨らませて不満を表す。

 「久しぶりの再会なのに!」

 「だから、だ。また曖昧なまま流されたら、戻って来た意味がないだろ。」

  眉間にくっきり皺を刻んで呟いた瑛くんは、小さく息を吐いてわたしに向き直る。

 「・・・俺の話、聞いてくれるか?」

 「うん、もちろん。」

  真剣な眼差しに慌てて居ずまいを正すと、ふわりと優しい微笑が返ってきた。

  そして瑛くんは真っ直ぐにわたしを見て、気持ちを伝えてくれたんだ。