「……雨?」
 どんよりと重たそうに浮かんでいた雲からぽつりと雫が落ちて、空を見上げながら呟く。
 それにつられたわけじゃないだろうけど、ヤバイな、と思った時にはもう、次々に雨粒が地面をめがけて降下してきていた。

 今居る場所から自宅までは、走ったところで濡れずに済むわけもないって距離。
 大粒の、肌を叩くような雨に閉口し、急いで雨宿りする場所を探す。
 走りながら辺りを見回し、ふと目に付いた木立の中にある建物。あそこが一番近そうだ。
 方向を変えた爪先が地面を蹴ると、ぱしゃんと水が跳ねた。


 ……先客だ。
 建物に近づくと、軒先に女性の姿があるのが見えた。
 僕と同じく、雨に降られたんだろう。ハンカチで身体を拭う仕草に一瞬躊躇ったものの、すぐに気にする程の事ではないと思い直す。
 ちょっと雨宿りするだけだ。誰かが居たって構わない。
 女性と可能な限り距離を置いて、屋根の下に身体を滑りこませた。

「……あ」

 短い声に思わず目をやると、その女性が僕を見て目を丸くしていた。
 視線がぶつかると、ハッとした様に目を逸らして。
 嫌な気持ちはしなかったし、はば学の制服を着てると、視線を浴びるのも大して珍しいことでもないから、僕もすぐに視線を空に移した。

「そっか……雨」
 一人言らしい、小さな呟き。
 ざぁざぁと雨音が響いてるにも関わらず、なぜだかその声はするりと耳に届く。
 もう一度、横目でちらりと彼女を見ると、口元に手をやってうんうんとしきりに頷いている。
「イキナリ降ってきたからあわてて飛び込んだけど、そういやこの場所も見覚えが……」
「……あの?」
 不審な素振りに思いきって声をかけてみる。すると弾かれた様に振り向いて、今度はしっかりと交わる視線。

「あ、えっと……雨、止みそうもないね?」
 あたふたと言葉を捜すように目を瞬いて、彼女が言った。
「そう、ですね。」
 頷きながらもなぜか少し違和感を感じて、さり気なく彼女を窺った。
 こうして見ると、思っていたより年上ではないな。
 来ている服装は大人びたものだけど、眼鏡の奥できょろきょろと落ち着きなく動く瞳は、むしろ小さな子供のようで。

「どうしようね?」
 その瞳が、妙にキラキラと輝きながら僕を覗きこんで来た。
「そうですね、とりあえず……」
 何かを期待するようなその眼差しにたじろぎながら、考えるまでもなく浮かんだ返事を口にする。
「このまま雨宿りするしかない……でしょう。」
「うん、そうだよね!」
 とってつけたような語尾をかき消さんばかりの勢いで、彼女が大きく頷いた。
 そして、そのまま僕にグイグイと詰め寄って来る。
「どうせだからはば学のこと、おねーさんに教えてくれないかな!?」
「な……、ちょっと!?」

 好奇心でビカっと輝く眼鏡に圧されて思わず後ずさると、あっという間に屋根の端まで来た。
「うわ!」
「あ、ゴメン!」
 首筋に雨がかかって思わず身を震わせると、それに気付いて僕の腕を引き寄せる彼女の小さな手に、なんだかぎくりとして、眉を寄せた。
「つい、テンション上がっっちゃって……ごめんなさい。」
 素直に謝る彼女のしゅんとした表情に、それ以上文句を言うわけにもいかず、彼女が誤解した様に怒ったわけでもなかったから
「……なにが聞きたいんです?」
 ほんの少しの罪悪感を隠す様に、僕から話を戻すと、彼女の瞳が一際輝いた。

「ヒムロッチと一鶴さんはまだ独身!?尽くんは高等部に在籍してる!?体育館裏の猫の親子は現在何匹に増えてるの!?伝説の教会って絶対告白目白押しだよね!!」
「え、何?聞こえない!」
 スイッチが入った様にまくし立てる彼女の言葉に、突然ごうっと唸りをあげた風の音が被さった。
「だから、ヒムロッチは……」
 バラバラと屋根を叩く雨音が強くなり、二人して屋根を見上げた。

「……1の質問はタブーらしいな。」
 唇を尖らせた不満げな表情で、彼女がなにか呟く。
 反射的に見下ろした視界に、思っていたよりずっと側にいる彼女が映った。
「っ!?」
「しょうがないな。……やっぱりいいや、ありがとう。」
 すぐ側で僕を見上げた彼女の瞳に、ぽかんとしている僕の顔が映った。




「赤城くん?」
「ねぇ、駅とコンビニ、ここからだとどっちが近いと思う?」
 自分がどんな間抜け面を晒しているか認識するなり、するりと言葉が飛び出した。  彼女が目を瞬いて、僕を見つめる。それほど突飛な質問だったんだろう。
「……駅、かな。……でも」
「傘、売ってるだろ?」
 ああ、そうか。口にして、初めて自分の意図を自分で理解する。

「濡れたままこんなところにいたら風邪ひくよ。」
「じゃあわたしが行くよ。」
「二人とも濡れることない……」
「だから、わたしが一人で行くんだってば。」
「……え?」
 思いがけない返答に、なんとなく逸らしていた視線を向ける。
「だって、ほら。わたしは濡れてもどってことない服だけど、制服はこれ以上濡れたら困るでしょ?」
 にっこりと僕に笑いかけて、言うなり駆け出そうとする彼女の腕を、慌てて掴む。
「大丈夫だって!制服なら替えもあるし、女の子を一人で行かせて男の僕が雨宿りってわけには」
「コラ、濡れた制服を手入れするのはキミじゃないでしょ!
 それに、わたしだって年下の高校生をパシらせるってわけにいかないの。大人として。」
「年齢は関係ないだろ!僕が行く!」
 年上ぶった言い方に思わずムッとして声を荒げると、彼女が呆れた様にため息を吐いた。
「もー、意地っぱりなんだから……んじゃ!」
「あっ!」
 イキナリ彼女が駆け出した。呆気にとられて見送ると、ひらりと手を振った彼女の笑顔が振り返る。
「大人しく待ってるんだよ!」
「ちょっ……実力行使かよ!」

 もちろん、大人しく待ってるなんて癪に障ること、する気はない。
 急いで屋根の下を飛び出し、ぱしゃぱしゃと跳ねた雨がかかるのも気にせず、彼女を追いかけた。




 雨に濡れて貼り付いた服。気付いてるのか気付いてないのか……きっと、後の方。
 まるで子供の様に全力疾走をする彼女。すぐに追いついた僕が並びかけると、しっとりとした顔に髪を貼り付かせて笑った。
「しょうがないなぁ。」
「こっちのセリフです!」
 知らず知らず、僕の顔に浮かんでるのも、笑顔だ。




「傘は売ってたけど……」
 乱れる呼吸を整えながら、駅前の売店を見て小さく肩をすくめる。
「ぜぇ、あと、最後の……はぁ、いっぽ……ゲホゲホっ!」
「……無理するから。」
「う、うるさいなぁっ!」

 今にも座り込んでしまいそうな体勢で、荒い息を繰り返す彼女にため息を吐くと、真っ赤な顔で怒鳴られた。

「僕は他を探すから、早く買えよ……って、その様子じゃ動けないか。」
「一言多い!……はぁ、でも、どうせもう濡れちゃったし。そっちが買いなよ。」
 手の甲で額を拭った彼女が、なんとか呼吸を整えて僕を見る。
「……ホントに意地っ張……」
「ってそんなこと言ってる場合じゃないんだっけ!傘下さい!」
 突然、僕の言葉を遮った彼女が、すごいスピードで傘を買いに行った。

「……それじゃ、僕は……」
 あっさりと態度を変えた彼女に、続くはずだった言葉を飲み込んで、代わりに別れの挨拶をしながらくるりと踵を返した。
「ちょっと待って!ハイっ」
 呼び止められて振り返った僕の手に、傘が押し付けられた。
「え?」
「だから、わたしは要らないの。早く買わないと、誰かが買っちゃうかなって思っただけ。」
 目を丸くする僕にまた笑顔を見せて、彼女はじゃあねと手を振った。

「ちょっと待てよ!」
 今度は僕が彼女を呼びとめて、その手に傘を押し付ける。
「君が買ったんだから、君が使えばいいだろ!」
「……言うと思った。でももうこんなに濡れちゃってるし……ギャ!なんか卑猥なセリフ!?」
「なに言ってるんですか。」
「いいから素直に持ってかないと、『おたくの生徒に親切を仇で返された』って学校に電話するよ?
 ……はっ、その電話にヒムロッチが出たりして!?しかも一鶴さんに代わられたりして、お詫びにドライブでもなんて誘われたりした日にゃあ!!」
「ああもう、なんかかなりおかしな具合になってますから、悪化する前に……」

 一人で興奮してた彼女の赤い頬が、不意に逸らされる。
「……?」
 目線を追うと、そこには小学生くらいの姉妹がいた。
 電車を降りて雨に気付いたんだろう。困った顔でどんよりとした空を見上げている。
 ぎゅっと繋いだ手と手。辺りを行き交う大人たちの波に、飲み込まてしまいそうな頼りなさ。

「あーあ。……早く、受け取らないから。」
 肩をすくめた彼女の、悪戯っぽい眼差しにドキリとした。
「……お互い様だろ。」
 誤魔化すように目を逸らすと、「だね。」って小さな笑みが返ってきた。


 二人に駆け寄った彼女が傘を差し出して言葉をかけると、不安そうな顔をしていた二人の顔が笑顔に変わる。
 振り返ってこっちを指さす彼女と目が合い、首を傾げると、姉妹が僕に向かってぺこりと頭を下げた。
「僕は何もしてないだろ。」
 一本の傘の下、身を寄せ合って歩いて行く二人を見送りながら、戻ってきた彼女に眉を寄せてみせる。
「でも、わたしが行かなかったら、持って行ってたでしょ?」
「……なんでそんな風に思うのさ?」
 やけに自信たっぷりに言うのが癪に障って尋ねてみると、「なんとなくー」と間延びした答えが返って来た。(なんだよ、それ?)


「そっか、相合傘ってテもあったね?」
「なっ!?」
 突然の言葉に、思いっきり動揺する自分に動揺する。
 なんだよ、これ?中学生じゃあるまいし!
「あれ?今時の高校生は相合傘って言わない?あ、またアイガサーとか無闇に略したりして……クシュン!」
 妙なところで考え込んでた彼女が小さなくしゃみをした。
 そのお陰で落ち着いた僕は、早速呆れた顔を作って口を開く。
「ほら見ろ、意地はるからだ。……クシュン!」
 思わずくしゃみをして、あわてて彼女を窺うとぱちりと目が合って。

「……ハハハ」
「……フフフ」



 どちらからともなく笑い合い、まだ雨の残る空を見上げた。


「……しょうがない。お互い走って帰ろうか。」
「うん。風邪ひかないようにね。ちゃんとお風呂であったまるんだよ!」
「そっちこそ。明日筋肉痛になりたくなければ、ちゃんとマッサージした方がいいですよ!……あ、一日おいて来るんだっけ?」
「ム!まだそんな年じゃないもん!」

 大人ぶった言い方にわざと憎まれ口を返すと、今度はまるっきり子供の言葉が返って来る。

「それじゃ!」
 くるりと踵を返して、今度こそ本当に別れの挨拶。
 にっこりと笑った彼女が、うん、と頷いて同じように踵を返した。
「またね!」
 駆け出した足音を振り返る。
 見る見るうちに小さくなる彼女の後姿。
「……またね、って」
 呟いて、駆け出す。
「いつだよ?」
 そういや、彼女の名前も聞いてない。
 偶々出会っただけの、僕と彼女。
 また会えるなんて保証はどこにもないのに。

 なんだか良くわからないけど、また会いたいなって思うから。


「……それじゃ、また。」
 願いを込めて、呟いてみた。








眼鏡に付いた雫はなんだかやけに3D
09/12/02